わぎょうの日記

アニメ・映画・雑記ブログです。

わぎょうの反省と半生記

このタイトルは記事と言うのもおこがましい物である。

薄れゆく記憶を補填とボケ防止の為だけの半世記である。

1967年1の月の22日 日曜に苫小牧で生まれる。

 これは父から、よく聞かされた話だ。

産まれてすぐ山に捨てられたとゆうのだ、更に3歳頃には施設に入れられるとゆう普通では信じ難い話もついてくるのだが、実は施設に入れられたのは何となく憶えている。

たぶん1~2泊したんじゃないだろうか?、こんな事が何度もあって父は探して回ったらしい。

そして当然、夫婦喧嘩も絶えなかった。

それはそれは、衝撃的な光景だったと思う、子供の頃の記憶だがフォークが飛んだり、テーブルがひっくり返ったりと、ドラマとかで見る光景を目の当たりにしていた。

余談だがドラマのようにフォークが壁に刺さったりすることはなかったと記憶している

美瑛に住んでいた頃ぐらいかな、父は怖い人でね。

壁に車の絵を沢山楽しく描いてたの、帰ってきた父はそれを見て台所から包丁を持ち出し、手を壁に押し付けて自分にこう言うのだ。

『この手が悪いのか?悪いなら切ってしまえ』泣きださない訳はないよね。

もう、それは恐ろしい顔に見えて泣きますよ。

わんわん泣きながら、ごめんなさいですよ。

今、思えば父にじゃなく母にごめんなさいだよね。

後始末は母がしたのだから・・・

4つか5つで古新聞の回収の手伝いさせられた。

小さい頃は大体何やっても許されるみたいな感じでしょ。

おうち訪問ですよ。『ごめんください』

『あら?どうしたの?どこの子かしら』

『古新聞、空き瓶ないですか?』

『あら~偉いね~お手伝いしてるの』

小さい頃は恥ずかしさが無いからどんどん行けるものね。

無邪気というのは素晴らしい事だ。

そして、なにより大人に褒められるのが嬉しかった。

母は自分を連れて家出を何回かしている記憶もある。

親戚なのか、友達なのか解らないけど、洋菓子を営んでる家に連れて行かれる事があった、行くと甘い香りの焼きたてのカステラの匂いが、その時の思い出だ。

多分だが、美瑛や富良野に住んでた頃の誕生日ケーキはここで買ったものだろう。

5つの頃に白老町萩野に引越しした。

メッチャ!オーシャンビューな一軒家の貸家だった。

35年前ぐらいまでは、まだ残っていたな。

目の前は海~で潮騒が聞こえてきていたのを思い出す、この頃には弟2歳か、母親を独り占めできないので意地悪してた。

今は数年前に前を通った時見たら、もうなくなってた、当時でも古い木造の建物だから

当然と言えば当然だろうな、雨の日は波の音を聞きながら、淋しい歌を作詩作曲してたな、今は楽器が弾けないから、そんなんむりだけどね。

 

その後、苫小牧の錦岡団地に引っ越した。

夫婦喧嘩は絶えてはいなかった、喧嘩するたび

父に何処かへ遊びに連れていかれてたのを憶えている。

確か樽前ハイランドや室蘭の水族館、成人向き映画もなんか記憶がある。

1973年4の月

錦岡小学校に入学

でもね。

勉強してた事、何も覚えてない。

母が忘れ物届けてくれた事は憶えている。

母が若くて奇麗だったのが自分の自慢だった、同級生からの”あれは誰のお母さん?”

の声が聞こえてくると、後ろをちらりと見ると自分の母が目立つ、何気に嬉しくてたまらなかった。

団地の直ぐそばは山だった。

裏山に行くと蟻地獄見つけたりしたら、蟻んこ捕まえて落としたりて遊んだりしてた。

今思うと残酷やね。

自転車も補助輪無しでウルトラマンのMAT(モンスターアタックチーム)のヘルメット被って乗りまわしていた。時には母にお遣いを頼まれるのだが、帰りにお釣りを口に入れておしゃぶりしながら歩くのだが、よく呑み込んでしまったものだ。

玩具も豊富にあった、カワダのダイヤブロック(家を作るシリーズやモータライズシリーズ)、ソフビも沢山持ってたタイガーマスク(アタッシュケースと四角いリングですよ)ウルトラマンスペクトルマンとか、ミニカーも沢山あった。

母が自動車学校に通う事になって良くついて行った。

免許取ってから母は苫小牧での友達が増えたようだった、連れられて食道園で焼肉食べたりしていたが、美味しい物が食べれるのは素敵な事だったが、周りは大人ばかりだから詰まらなかった。

そして、こんな事が続くうちに、とうとう離婚してしまった。

突然、母に連れられてトラックで荷物を運び、気が付くと見知らぬ家で目が覚めたのだが、窓の外には、はっきりとは言えないがジャンプ台のようなものが見えた。

その後、母方の兄弟の家に連れていかれ預けられた。

従妹の兄妹2人なのだが歳は解らない、兄弟に預けられたと言うよりは、同居している父母、つまり自分からみたら祖父母に預けられた感じだ。

従妹の家は運送業をやっていた。

多分だが札幌の白石辺りだと思う。

母は直ぐ迎えに来るからと言い残し、弟と二人祖父と祖母に預けられたのだった。

この時覚えた事、牛乳をカキ氷に使うシロップを入れて飲むだった。

今でも偶に飲みたくなるんだよね~これがww

従妹と一緒に転校先の学校に通った。

季節も夏だったか秋だったかも覚えていないが、ダラダラと時間だけが過ぎて冬がやってきた。

道路脇に雪が山のようになっていった頃、まだピカピカだったランドセルを腕の代わりに足を通し雪山を滑り降りる、そんな事をやっているうちに、瞬く間に歴戦のランドセルになっていった。

一年でしわしわのランドセルになったのさ、ランドセルだけは上級生レベルになったが、頭の方は全然で勉強の事は相変わらず何も覚えていない。

ただ、粘土遊びといたずら書きは大好きだった。

あんなにあった、玩具は引越しの荷物の中に紛れていたので、子供だけでは取り出せないので、しょうがなく粘土でアニメゼロテスターのメカとか、自分で考えたメカを形にしてた。粘土だから上手に作っても形が崩れてしまうので1日ももたなかった。

クリスマスが近づいてくると、子供だからプレゼントを期待しないはずがないし、会いに来てくれると信じていた、だが母は現れなかった。

クリスマスイブがやってきて従妹たちがプレゼントを見せびらかしに来る。

ミサイル発射する戦車、確か有線のリモコンだったはず、それはそれは羨ましかったし、凄く寂しい夜だった。

クリスマスの朝、枕元にお絵描き帖とかが置いてあったのを今でも覚えている。

あの時は母が夜に来て置いて行ったものだと思っていたが、今思うに祖父母が見るに見かねて、母の代わりに買ってくれたのだろうと思う。

どっちにしても嬉しかったのには変わりない。

そしてお正月がやってきた。

父が会いに来たのだ、そして父はすごく優しかった。

ハコスカに乗って現れた父は、自分と弟におもちゃ買ってくれて夜に帰っていった。

自分が買って貰ったのは仮面ライダーの変身ベルトすごく嬉しかった。

今とは全然違うが、光って回るだけだが元祖変身ベルトなわけだ、ブリキと乾電池が入るから重たかったような気がする。

父来る。

お雛さんが済んだ頃、突然父が迎えに来た。

しかも新しい母を連れて、自分と弟は直ぐに新しい母に慣れていった。

きっと、あの頃は仲良くならないと又置いて行かれると思ったに違いない。

だから直ぐにお母さんと呼んだのだと思う、そしてそれからすぐに家族旅行へと行った、東京、大阪、京都、奈良と旅行したのだった。

東京は上野は動物園へ行ってパンダを見て、お土産にパンダのぬいぐるみが欲しかったけど言い出せず、皇居と歌舞伎見たな、大阪は新喜劇と大阪城、奈良は大仏、鹿、法隆寺、京都はあれ?どこいったかな、思い出せないや、でも、すごく楽しかったのを思い出します。

どうやって手に入れたのか解らないが、車の中で父母とうちら兄弟で500万を”貰ったものは返されない♬”と合唱したのを頭の隅からひょっこりと出てきた。

今考えても、全く思い出せないが、歌だけ憶えているエピソードである。

3学期が始まって、数えて6回目の転校となる学校に行った。

最初は錦岡小、北光小に2回、札幌のどっかの小学校も2回、そして6回目の緑小だ。

札幌の小学校は名前すら思い出せない位短かい期間だった。

ある日の事、家の住所を突き止め母は迎えに来たのだった。

玄関先で怒号が鳴り響く、父は母と一緒に来た付き添い相手に怒鳴り散らす、自分は新しい母の腕の中で恐ろしさに震えていた。

自分を呼ぶ母の声に素直に反応はできなかったのは言うまでもないだろう。

そんな事もあったからか、夕張郡栗山町継立へ引っ越したのだった、通算7回目の転校だ。

継立の分校、たしか6~7人しか生徒居なかった、数週間のレベルでまた引越しするのだが、勉強ってなんですかって感じで、算数は出来ない子供しなってしまうだった。

自分の記憶の中では、美瑛、白老、萩野、札幌、苫小牧と引っ越ししている、苫小牧の中でも4回はしているのだ、だんだん記憶があやふやになってはきているが、7歳までこれってすごいよね。

父の仕事はスクラップ屋、雑品屋をやっていた。

廃車の解体、スクラップから銅、真鍮、アルミ、鉄と選別して買い取り業者と商売するのが仕事だ、偶に古紙回収とリサイクルのガラス瓶(ジュース瓶、一升瓶、ビール瓶)も回収してた。

小学一年の児童がアセチレンのバーナーで車の解体をするって信じますか?

ハイ、やらされたのです。

最初は切断すると火花が出るでしょ

あれが怖くてね~

何台かやっているうちに慣れるのね。

平気になっちゃうのよ~

そして同業の大人たちに「偉いなぁ~凄いなぁ」と褒められるのだった。

小二になる春頃、峰延町に引っ越した。

あんまり転校するものだから、勉強についていけなかった。

自慢ではないが算数が出来ない。

馬鹿にはされなかったけど本当にできなかった。

二桁以上の計算できなかったのよ、いつも親に扱かれてた嫌な記憶しかなかった。

悪い事すると柱に縛られたり、めっちゃ叩かれたりしたっけなぁ。

何処かに閉じ込められるって覚えもあるし、今なら普通に虐待だよな、他所の家に石投げてガラス割ったり、万引きしたりした。

万引きは、この時初めてだった、同級生の親が務めてるスーパーで、同級生は「母さんここで働いているから、持って行っていいんだ。」と言われ「そうなんだ」と信じて持って行った。

当然、後日学校で呼ばれて怒られるのだが、家で怒られた記憶が無いのである。

峰延の家の時は周りに水田があったので、ドジョウとか捕まえたな。

オレンジ色のドジョウとかいて、なんか可愛がってたと思う。

不思議な事に小1の時乗れてた自転車が乗れなくなる。

え~なんで~ってなってました。

めっちゃ練習して乗れるようになったけど結構時間かかったな。

小3の頃に美唄の東明に引っ越した。

平屋の家に蔵が付いている家だ、薄気味悪い蔵の方にベッドを置いて寝てた。

夜すごい怖いのよ、いるわけないと思っていても何でもそうゆうのに見えてくる。

多分この頃から、オーブ見たりしていたかもしれない、霊感が強くなって鍛えられたのかもしれない。今でも不思議な現象や見たりとかするのも、これのせいなのかな。

また、この頃なんかサンドバッグのかわりに人型したの天井からぶら下げてたのよ。

父が別れた母への憎悪とゆうか怨念みたいのを植え付けるように、先ほどのサンドバッグ相手に蹴りとパンチの練習をさせられる。

そして言うのだ「お前らを捨てたお母さんが来たら蹴っ飛ばしてやれ」と、もうね洗脳染みていたよ。

小学校は東小だ。

この頃そろばん塾に通わされた。

その塾は怖いところで、爪伸びてたり、足汚れてると竹の定規でぺしぺし叩かれた。

結果行きたくないから、月謝を無駄遣いに・・・・

蝋メンコや仮面ライダーカードをくじやさんで買い込む。

まあこれも、同じ塾に通っている仲間に誘われついていったのが発端で、一人で買いに行ったりして、そこからバスに乗らず歩いて帰ったりした。

月謝の使い込みバレて怒られる、超怒られて、めっちゃ父が怖かった。

使い込みで買ったライダーカードが父に見つかったのだ。

そう言えばあの時のライダーカードはどこに?

冬になると美唄の小学校は、体育の授業がスキー学習になり、学校のグラウンドに大きなスロープが出来上がる。大体3年まで、スキー・スケートだなんて、やるとも思っていたからスロープが出来た事が不思議だった。(苫小牧はスケート)

そして、スキー遠足なるものもあるのだ。冬場は畑は雪で埋まるので、近所の畑をスキーで行くのだ、そう言えばスキー遠足の時の弁当、福神漬けの入った海苔で真っ黒くなったおにぎりが好みだった。(黒い爆弾ぽかった)

更に、美唄・東明の奥地にマンジ炭山スキー場があるのだけれど、そこへスキー学習で滑りに行くなんてこともあった。

転校を繰り返して真面に授業など受けていなかったので、そんなことがあるなんて結構ワクテカもんだった。

この時まで遠足とか楽しかった思い出なかったのかもしれない。

 

小4~小5は同じ美唄の稲穂団地に引越し中央小に転校した。

転校した中央小は近所に幼稚園と図書館がすぐ近くにあった。

小4の夏に初めてプールの授業を体験し溺れた、女の先生が優しく教えてくれたが、溺れてからというもの足が着かないとこは恐怖から逃れられなかった。

この頃ぐらいから、長い休みは親の手伝いに駆り出されることになるのであった。

駄賃をやると連れていかれ、鉄の心棒に巻いてある銅線を解いたら、10K10円やると手伝わされるのだ。

友達と遊びたくてしようがないのに、怖くて言えないで、そのまま連れて行かれてしまうのが度々だった。父の「お前は後継ぎ」という言葉も、この頃から多くなっていく。

この頃は図書館が近かったせいか、よく本をかりたものだ、TVで恐竜探検隊ボーンフリーが放映されて、恐竜に興味を持ち始め化石の本とか読んで恐竜の名前とか憶えていたいた。今でも覚えているティラノを筆頭にスティラコザウルス、トロエドン、ジメトロドン、サウロロフス、アロザウルス、アーケロン等々

宇宙戦艦ヤマトもやっていたので、戦争の本とかも読んでいた。

戦争と言っても、戦艦大和の最後とかガダルカナルの話とかの本を読んでた、とにかく、興味を持たないと本なんて読むことはなかった。

滝川にある松尾のジンギスカン本店によく連れて行ってもらった。

ここのジンギスカンは幼少の頃の懐かしの味ですね。

奈井江温泉、芦別レジャーランドとかもいったなぁ。

自分に弟の他に異母兄妹が出来たのもこの頃だ、妹が二人、特に下の妹が一番かわいかったな、二人のおむつを替えたり、歌を歌ってあやしたり、ホットケーキ作ってやったりとしていましたね。

小5の冬に苫小牧 音羽町に引越し、緑小に帰ってきた。

苫小牧は冬になるとグランドにスケートリンクを作る。

アイスホッケーが盛んである、だからか教室では割り箸と厚紙とビニールテープでスティックを作り、ビニールテープの芯でパックを作り遊んでいた光景に転校早々にびっくりしていた。

小5の時はあまり馴染めなかったが、なんと小1の時転校してきたことを憶えている同級生がいた。

初スケートは、スピードスケートを学校から貸してもらえるが、努力はしたが立てないよ、こんな薄い歯で立てるわけがないと思っていた。

そのうち、母が親戚から貰って来たスケート靴で立ててマシに滑れるようになった。

小6に苫小牧の公営住宅に引越す

親の手伝いで古紙回収嫌だったなぁ。

特に通ってる学区は止めてほしかった。

おじいちゃんおばあちゃんぐらいなら、偉いね~って言われるからといっても、同級生に会ったものなら恥ずかしくて堪らなかった。

昔って、空き瓶をお店でも買い取ってくれてたから、落ちてるジュースの瓶を公園の水道できれいに濯ぎ、持って行って換金してガチャを回してた。1回20円のガチャでスライムや消しゴム(怪獣やスーパーカー)ルービックキューブカウンタックのプラモデルぽいものもあったな、女の子向けは指輪とかだったかも。

そんな頻繁に空き瓶は落ちてはいないから、家中探って小銭を得るなんかもしてた。

度が過ぎると親の貯金箱から拝借なんて事もある。だがこれはまずいバレたら、めちゃ怖い事に・・・

結局バレてシコタマ怒られる。

酷い時は片手鍋(アルミ製)だが頭を叩かれる。(今でも額に小さな瘤がある)

真冬に裸足で外に出される事も殆ど、今なら虐待だと大騒ぎのレベルだろう。

夏って、暑いし中々眠れないよね。

ボロイ公団住宅だったから暑い。

この頃って小6だけど夜8時には寝てた。

けど眠れなくて弟と話していると、その話声を聞いて母が言う。

「眠れないなら、茶碗洗いな」

苫小牧の水は夏でも冷たい、洗いたくないけど、一瞬でも涼めるので洗い、そして何事もなかったように寝るのである。

小学校中学年頃ぐらいから、後継ぎだとか、防衛大行けとか、生みの母に会ったら柔道で投げてやれとか煩かった。

これが、きっと嫌で嫌でしようがないから、勉強しない悪い事しかしないになったのも、これが原因かもしれない。

だって、友達と勉強するも駄目、遊ぶも駄目、良いのは手伝いだけ、小学生高学年だからと言っても面白くないじゃん。

そんなんでも、仲の良い友達がいたんだ、長さんとオタマの二人、あだ名で呼んでた。

お祭り行ったりと交流はしてた。

あだ名の由来は長さんは読んでの如く、苗字に長いがあるから、オタマは猫の真似を良くしていてから、タマと呼んでいたからだ。

港まつりや樽前山神社まつり、冬のスケートまつりに3人で出かけました。

確かあの頃は積雪が多かった。

道路脇に雪が1メートル以上の山になっていた。

その上あがって歩いたのを思い出す。

そうそう、「天は我を見放したか」って言ってた(当時の映画 八甲田山)吹雪いていたって学校は休みにならなかった。

そして中学生になる。

中学は転校はしなかったし、この二人の友達とも交流は続いてた。

 

だが父2度目の離婚

学校から戻ると弟が泣いているのだ、母は妹2人を連れ出て行ったというのだ。

部屋は荷物が無くなりサッパリとしていた。

自分と弟、父の三人の暮らしが始まると言ったって、そんなに変わるわけはない。

自分らでご飯作るか、ほかほか弁当買うかだ。

この頃、父の仕事はスクラップのダイナモセルモーターを福島にあるリビルト工場へ納品する仕事をしていた。

4~500円位から高いので2~3000円位が一本当たりの値段だ。

福島まで学校サボって行ったことあったな、あと電電公社の電話交換機の払い下げ品の解体から出てくる貴金属で東京までついて行ったことを思い出す。

そんなあくる日の事だ、車で札幌の飲食店に連れて行かれた。そして自分には一目で直ぐに分かった。

父の前では知らない人としていたが、そんな訳はない、知らないとは言ったが忘れるはずはない大好きな母を、”お母さんだ”と心の中で呟いてた。

チラチラと顔を確認する、小学校の入学式の日若くて奇麗な自慢の母、6年経っても忘れることはない。

照れくささもバレない様にしていても、きっと母には感づかれているに違いない。

無表情のまま別れ家路についた、家に着いてからも父は本当に覚えていないかと聞いてきたので、しらを切った。

父が居ない時に涙した事は何度もある。

自分には居て欲しい時に母は居なかった。

今でも親が離婚しなかったら、自分の人生にどう影響しただろうと考えることがある。

この後、母は自分の高校入試合格の時電話をくれた。

おめでとう なんか欲しい物ないかい?って・・・

すごく嬉しかった。

でも、すごく他人行儀な話し方してたと思う。

今は会って言いたい。

ありがとう。あんな言い方してごめんなさい。

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