このタイトルは記事と言うのもおこがましい物である。
薄れゆく記憶を補填とボケ防止の為だけの半世記である。
さらば!FZR400RR(ガーラント)
暫くはバイク売りたくなかったので考えた。
どうすれば最良なのかを、そんなこんなで金も減っていく、ひと月又ひと月と悩むうちに家賃も払えなくなっていった。
手元のお金は数百円となっていった、何を思ったのかパチ屋の前にいた、そこは逆ナンされた場所、どうせ弁当買ったりしたら無くなるんだと思いながら500円だけ打ってみた。
偶々なのか運が良かった。手持ちが5千円になった、次の日もと500円打ったが出なかった、そりゃそうだプロでもないし釘見てもわからないし、そして次の日も来て見たが出ない。4日目も又パチ屋に来て500円勝負、今度は3千円のプラスになった。一日1食の生活が続く、こうして繰り返すうちに2日置きに勝ってる気がしていた。
仕事に行く気も起きないのでパチ屋通いをしていた。
先ほど気付いた2日置きに打ちに行くようにした。
そうすると運がすごく良い、見る見るうちにお金が増えて、家賃も払えてご飯も普通に食べれるようになった。
お金に余裕出来たので、飛行機に飛び乗り北海道へ帰った。
育ての母や異母兄弟の妹達と過ごした。
暫くは夜眠れない日々だった。
眠剤飲んでも効かない事がよくあった。
だが少しづつ癒されていった。
そして母に相談して苫小牧に帰る事を決意したのだった。
会社に相談しても引っ越し代金出してくれる訳もなく、やはり売らないと引っ越し出来ないとゆう結論にたどり着く。
0123で積み合わせで30万位の見積もりを貰った。
そして母に引越し先を探してもらい。
単車も売り茅ヶ崎を離れた。
パチンコで数か月頑張れる自信もないのだから、これが最良なのだろうと自分に言い聞かすのだった。
苫小牧の地に舞い戻る
故郷の苫小牧に帰ってきたはいいが、仕事なかなか見つからなかった。
家賃15千円風呂無しの格安ボロアパート、
風呂は母を頼って入れてもらうが、
流しの湯沸かしで頭洗ったりした。
12月に入ってヤマヒサと言うセールスの仕事に就いた。
苫小牧に支社が出来るとゆうので入った会社だった。
個人宅を一軒一軒訪問し玄関フード・お風呂・壁・屋根とリフォームを勧める仕事だ。
昔、工藤夕貴がユラックスと言うユニットバスのCMやっていた会社、
三波春夫もCMやってた「でんでんむしのヤマヒサです」って
札幌で3カ月の研修は過酷だった、来る日も来る日も個人宅を訪ね歩く、札幌市内ではピンポン押してもドアを開けてくれない。
インターホン越しの戦いが来る日も続く。
開かないだけならまだいい、時折罵声を浴び去られる。
修理頼んだのに直しに来ない。
夜中に訪問しに来るの辞めさせろとか、まあ色々クレーム言われるのが毎日だった。
研修中にまぐれで玄関フードが売れた。
それ以来札幌支店長に変な期待をかけられた。
「ただのお待ちの客に当たっただけだって」><
又それが余計なプレッシャーとなって、他の同期たちが好調に売れる中、
自分だけ一向に売れなくなるのだ。
この時楽しみだったのが週一のアパートへの帰還だったよ、苫小牧に帰って来てから6つ下の彼女がいたから会うのが楽しみだった。
92年になり正月が過ぎ雪が解けた4月頃苫小牧支店が起動した。
この時友達からVT250を譲ってもらい乗り回してた。
仕事の方は相変わらず売れない日々を過ごしていたなぁ、人と話すのは苦手ではなかったが、なんか売りつけるのは嫌だったなぁ。
なんかそんな仕事の仕方を皆強制されてる感じだったもの、店が売れなかったら朝帰り当たり前の毎日だった。
売れないと翌日詰められて又嫌な想いをする日々が続くのだ。
7月か8月単車盗まれる。
単車乗り生活もこれからって時に、あれもこれもしたい、彼女とタンデムもと考えていたのに、直ぐ見つかったが廃車だった・・・・・悲しみしかなかった。
なんて無残な結末
10月、会社で一番売れない自分は詰められる毎日、
粘ったんだけどね。
何で売れない?と詰められまくり
「ハイ、合わないので辞める」
こんなんやってられんって辞める事にした。
11か月働いたら慰労金?だか貰えるので11か月になった時点で辞めた。
実家へ
11月12月と極貧生活、友達がコンビニへ弁当の配達仕事をしていて、期限切れの弁当を暫くもらい生活した。
12月、意を決して父の所へ行く、なんか話の流れで兵庫県西脇市の父の仕事相手の所に研修に行く羽目になった。
生野に近いと思いつつ飛行機で一路伊丹空港へ向かった。
あちらの会社の社長さんが出迎えてくれた。
なんか人の魅力とは?みたいな事説かれた。
なんか調子のいい社長とゆう印象だった。
西脇に着くとスクラップエンジンが所狭しと置いてあった。
日本人が数人と黒人さんが数人いた。
なんかどうやらこの方々と寝起きを共にするらしいと感じた。
街から離れていたので、買い物とか不便だろうからとスーパーカブを与えられた。
ここでの研修とは、輸出するエンジンの種類の把握と状態を学ぶ事、そしてコンテナへの積み込み方法だ。
父は北海道から直に海外へ輸出する気だった。
まだ研修は終わっていなかったが、93年GWに帰ってから取り掛かることになった。
廃バッテリーも輸出していた。
父は北海道で一番最初にやったと自負していた。
この時内縁3人目奥さん居たわ、本当どんだけやねん。
暫くは頑張っていたのだけれど、行きつけの飲み屋に気に入った子が出来て、入り浸っているうちに仕事に行かなくなった。
そしてパブでバイトするようになった。
楽しくやってはいるのだけれど、何か嫌な感じな想いをしてた、よく行く喫茶店の常連の女の子が来てパチンコ屋で仕事してみたらと勧められる。
パチ屋と言ったら、不良ぽい人が働いてるイメージしかなかったから、戸惑いは隠せなかった。
悩んでいるうちに12月になった。
いつも決断が遅いのよね。
ジックリ考えるとゆうか不安に思う事が多かった。
初のP店
新店で12月中にオープンするらしい、新規なら応募しやすいかもと思って面接を受けた。
確かクリスマスOPENだったと思う、それまでに台の取り付けや、接客練習、そして機械トラブルの解消方法など学び、その日が来た。
初日はレディースOPENで夕方に1~2時間だけの時間だったが、戦場と言っても過言ではない状態だった。
引切り無しに呼び出しランプ点き、トラブルも続出てんてこ舞いだったのを憶えている。
そんな初日だったせいか、グランドOPENは気持ちに少し余裕があった。
初日も次の日も店の外は凄い列で並んでいたし、入場も大きな怪我人は出なかったが、こっちが怪我しそうな勢いだった。
なんせお客一人一人の目の色が違う。
めっちゃ恐かったぜい
元々このお店の本店は岐阜にあるチェーン店だった。
本店から助っ人で来てた先輩が凄く賑やかな人で、いつもホールで煽られてた。
島の外から『フィーバー無いか?フィーバー無いか?』とマイクパフォーマンスを始める。
こちらがフィーバーマイクを始めるまで煽ってくるのだ。
フィーバーマイクとは・・・スタートマイクとも言い。
大当たりしたら、その台番のコールとおめでとうございますを言うのだ。
「210番台フィーバースタート!おめでとうございます。ジャンジャンバリバリとお出しくださいませ」
てな具合で捲し立てる。
最初は恥ずかしくて「無理!」だったけど慣れって恐ろしい。
少しづつだが楽しくなっていく。
開店時間とお昼と19時にF1グランプリのテーマ「トゥルース」がかかると
呼び込みが始まる。
いらっしゃいませ いらっしゃいませ ありがとうございます。
いらっしゃいませ
本日は何かとお忙しい中パーラー〇〇ご指名ご来店頂きまして
ありがとうございます。
ってやつ
今は、やってるホールないかも、スタートマイクも射幸心を煽ると言うことで禁止になっている。
ホールの仕事で一番面白いとこなのにね~
煽ってホールを盛り上げていくのが楽しくて、いつしか工夫するようになった。
この当時は西陣「花満開」が人気機種だった。
その工夫とは、それまでは台番とフィーバースタート、ジャンジャンバリバリとお出しくださいだった。
それを「パッと咲いた花咲いたCR花満開コーナーから〇〇番台フィーバースタート」や
「桜吹雪の花満開コーナー〇〇番台確変の満開スタート」
とか自由気ままに楽しんでた。
そんな楽しんでた最中、岐阜の先輩方が帰ってしまった。
残ったのはライバル心剝き出しの同郷の仲間だ。
そして、くだらない苛めが始まった。
この頃今の妻と付き合い始めていた。
当然良く思わない連中が牙をむく。
兎に角、仕事にケチ付けてくる。
もうそりゃ堪らなかった。
そして我慢できずに退職した。
バイトの日々
肥料を船から吸い上げる仕事したり、木材のパネルを寸法通り切ったりの仕事してた。
アルバイト中もP店での楽しかった事の日々を忘れられなくて、うずうずしながら日払いでパチンコしに行ってた。
パチンコしてると、主任さんのような方が来て事務所に呼ばれた。
「パチンコ店で仕事してるよね?」
「辞めたんですよ」
「うち来ない?」
「経験者は大歓迎だよ」
てな感じで話がまとまった。
この店では煽りマイクはあったが、呼び込みはなかった。
主任に許可を貰い、呼び込み、自分流の煽りマイクを披露、自分より年下の先輩に一目置かれ更にP店での仕事が面白くなっていった。
この時はもう煽ってなんぼってな感じで煽りまくる。
12月まであっとゆう間に時が過ぎた、年末付近で父が戻ってこいと店に来たのだ、給料も好きなだけやるから後継げと言われた。
願ってもない事だった、P店で貰ってた23万より多く出すと言われると、よく考えればいい物を「解った」と一つ返事で返してしまったのだ。
そして12月一杯で辞めることになった。
父と仕事再開
親に彼女を紹介し、お正月明けから仕事を開始することになった。
中古自動車エンジンの輸出、車の解体が自分の仕事だ。
エンジンを外し、ハンドル、フロント・リアアクスルを外し、タイヤとかはロシア人が偶に来て買っていく、1000坪のヤードに置ききれないほど廃車がやってくる。
だが、この当時輸出に活きやすいのはFRのエンジンが殆どだった。
FFのエンジンはそれほど出ていかなかったのを憶えている。
2月に彼女が妊娠したので入籍した妊娠3カ月だった。
父の煩い事、とにかく見た目が恥ずかしいのと、凄い見栄っ張りなので、向こうの親には会わせたくなかった。
アフガニスタンやドバイで商売してるバイヤーがやってくるので、片言の英語とジェスチャーの毎日「いや~通じね~>< たすけちくり~」で忙しかった。
96年6月 家に帰宅途中でオカマ掘られた。
妻がおなかに痛みを訴えてた、自分はどうすることも出来ずに狼狽えてた。
その時父の言葉「大丈夫だ、がっちり金とってやる」に腹立っていたが、妻とお腹の子が心配だった。
救急車で病院に運ばれたのだが、もう気が気でなかった。
お腹の子は妻と共に無事と知らされてほっとしたよ、本当に無事でよかった、だが父のあの言動が思い起こされる。
金の事より、お腹の子供の事心配しろよって、自分メッチャ怒ってた。
普通ならお金よりも「子供大丈夫だろうか?」って心配が先に立つものなのにね。
病院通いは9月まで続いた。
父が1か月も経たないうちに仕事に出てこいと呼びに来た時は、自分らの体の事も心配しないで商売のの事かよと思い、案の定親子喧嘩になってしまった。
兎に角腹が立って襟首捕まえて部屋から玄関に叩き出した。
この事があった以降父とは疎遠になっていった。