このタイトルは記事と言うのもおこがましい物である。
薄れゆく記憶を補填とボケ防止の為だけの半世記である。
元の古巣へ
父とは疎遠になり無職でプラプラしてたのだが、パチンコするのは止められなかった。
元の職場に遊びに行ったら、主任に呼ばれた「わぎょうさん休みかい?」
聞かれもせんのに「父と喧嘩して無職ですわ」と答えてしまった。
ちっとも期待していなかったのに「うち戻ってきな、わぎょうさんならいいよ。若奥にも断っておくから直ぐおいで」と言われお言葉に甘えた。
9か月ぶりのパチンコホール、燃えに燃えましたよ、唸る煽りマイクで活気づくホール、300台ほどの店で平日ピーク130人土日ピーク180~190人熱気が凄かった。
9か月ぶりだが、スタッフ面々は止めた時と変らなかった。
若奥とは、専務の奥様で専務は社長の息子さんなのだ、ホールに来ると威圧感が半端なかった、ある時「わぎょうさん、こっち来て」と呼ばれ行ってみると、
”うわっ若奥!”と顔に出さない様に頭の中でリアクションしてた、
「わぎょう君子供できたんだって?」
「はい」何言われるかと思いながら緊張してた。
「本当なら、又研修期間過ぎてからなんだけど、社員にするからしっかりやってね」
と言われた。
この時めっちゃ嬉しかった予想してなかったし、覚悟してたのになぁ。
この時ほど、このご縁は大事にしなきゃと強く思っていた。
でもP店も体制が変わり、会社組織も変り色々な事があった、グループまとまれば10店舗以上の会社なのに分割、良くしてくださった若奥違う会社に、パチンコ交換率2.23円だったが3円そして等価交換へと変わり、スロットも7枚交換が等価交換へと変わった。
店長も4人位変ったのかな、3人目までは苦しいけど踏ん張ってた。
P店に戻って来てから、4年目で釘の勉強や設定の勉強させてもらっていた。
最初は当たり前だが上手くいかなかったし、新台任されて一日で30万から50万の赤とか、今思うとやらかしてるよなぁ~と思っている。
朝出たら閉店直前に店へ戻って台のメンテナンス
夕方出たら閉店までやって台のメンテナンス
休みの日も閉店直前に店へ行き台のメンテナンスだ。
休みの日は来ないで休めと言われるが、台のメンテナンスが楽しくてしょうがない。
この頃は3円交換で割数13.33割チャラなので月平均12割以下ぐらいで稼働落とさず留まっていたら良かった。
この当時の3人目の店長が利益1割営業が方針だった。
小さな店舗だったが、周りに中規模店と大規模店と何とか戦えてた。
3人目の店長が辞めて4人目の店長が来るまでの一年間
稼働もあまり落とさず、利益も安定させて踏ん張って見せていた。
だが、同グループ店の店長達からは認めて貰えなかった。
ちょっと派手な処見せれば、「やり過ぎだ!出し過ぎだ!」と言われたものだ。
利益安定させていたのだけれど・・・
4人目の店長が来る日が決まった。
「わぎょうくんか?今やっているイベント全て中止で」
”はぁ~何で中止?安定して客入っているのに?”
「はぁ、分かりました」
「あとは俺ら行ってからイベント決めるから大船に乗ったつもりでいてくれ」
と電話があって、来るまでの1週間何もやらずに待っていた。
当然、週間イベントを楽しみに来ているお客様は少しづつ来なくなっていた。
4人目が来てからは土日イベントがメインになった。
平日お客様が少ないのをカバーするために週間イベント組んでいるのに、土日のお客様が多い時にイベントは、どうしても街中の然も小さなP店にとっては自殺行為に思えた。
まあ口を開けば経営哲学だ!帝王学だ!とのたまっている4人目と腰巾着の主任
もう呆れてものが言えなかった。
自分が居たこのP店、土日は近くにスーパーが2店もあるので、買い物に邪魔なお父さん方はどうしたってくるのである。
イベント中止にする前に、店の状況を確認も把握もしないで挑むと言う愚行である。
普通は客の流れ見てからプラン立てるものでしょ。
自分とは考えが合わないので、つらく当たられた。
そして有ろう事か、社長に「わぎょうは深く考え込む。言うことを聞かない」等と言う始末
当然自分のいないところでの話だ。
こんな流れの中、やはり平日に客寄せ出来ていない、しわ寄せがやってくる。
前までの平日流れが止まってしまった為に、土日も徐々に客数が減っていった。
土日に出して、平日お客様がいない時に抜く、利益出るわけがない。
4人目が来るまでは、平日は12割~11割後半を狙った1割営業して、土日のお客様が多い時に11割位狙った営業だったんだもの。
でも自分の意見は聞かない。
自分に言うのは「とにかく平日抜け」
そして、とうとう店の成績がやばくなり始めた。
コンサルとか入れてみたものの、プライドが邪魔するのか上手くはいかなかった。
コンサルも酷かった。
中古台の入替戦略はいいのだが、どこか詰めが甘いのだ。
そのうちに、自分がやってきた時の利益の1/4近くまで落ちた時、店閉まるなと思った。
こんな事もあり、4人目も去っていった。
腰巾着も共に・・・
わぎょう立つ⁈
2009年頑張った甲斐があったのか暫定的に店長なった。
2000年位から弄ってきた経験もあるし、何とかなるだろうと思いながら挑んだ。
しかしあの時からみたら、利益は1/4 になり、再出発は困難と思った。
先ずコンサルを排除しなくてはならないと考え始めるようになった。
中古台の入替戦略は続いているが一向に伸びないのだ、コンサルにあえて質問をする。
「本当にこのままやっていていいのか」
コンサル「大丈夫です。もう少ししたら下げ止まりますから」
”何言っているこいつ?”
まさかの下げ止まる発言だった、自分の怒りは頂点に達し、この話を社長に告げ排除することを進言した。
最初は向こうも渋っていたが、断固として反対し排除することに成功した。
こっからは「俺のターン!」
新台選びは、なるべくオタク要素の強い物を選び、定番中の機械は外せないとゆう感じで攻めた。
スタッフも最初のうちは”笑顔と真面目さ”で強調して選んだ、店の内外で美化運動に心がけ、冬は滑って転ばない様に除雪も徹底的にやった。
それでも稀に牙向くお客様相手にも怯まず誠実に対応してきたのだった。
少しづつだが1/2ぐらいまで客数が戻ってきて、活気が前と同じ程とは言わないが良くはなって来ていた。
新台入替も台の取り付けを自分達で傾斜器、片手にハンマーと釘で打ち付けた。
それまでは業者に依頼して取り付けしてもらっていた。
小さな所から色々と経費削減も開始した。
色々と頑張って2012年の冬のボーナスは、いつもの2倍以上の額を貰えるほどの成績を上げた、スタッフの顔も”こんなに貰っても良いの?”と言うような表情だったし、自分にも聞きに来た。
また一人また一人とくるたびに「今年みんなが頑張った成果だ。お疲れさん」と労った。
粗利益も2割ほど足りなかったが、前の水準に戻って来ていた。
父死す
2013年10月父が亡くなった。
休憩所で仮眠を取っていた時電話が鳴った。
「もしもし、わぎょうの携帯です。」
「兄貴俺だけど、親父が関空近くのホテルのお風呂場で死んだ」
「・・・!」もう”はあ~?”てな感じだった。
話を聞くと数年前から、フィリピン女性と結婚してたらしく当時10歳の子供がいるというのだ、そしてフィリピンで生活していたのだけど、金を勝手に使われて腹がたったのが理由で、離婚するのに日本に来てたらしい。
国際結婚なので離婚するのに調停者みたいな人がいたようだ。
もう少し細かい事情が聴きたくて、弟からナンバー聞いて電話した。
色々聞いた後、こう言われた。
「なかなかドラマチックなご家族ですね」
苦笑いしか出来なかった。
そんなこんなでホテル滞在中の事故として扱われた。
浴槽に浸かってそのまま虚血性心疾患で亡くなったと聞かされた。
「それで兄貴、今日こっちに遺体とりに来れないか」
「今からは無理だろ、明日には行けるように手配するからお前頼む」
弟の奴、嫌がってた「なんで~?」みたいな反応してた。
遺体見る事になるのだから、それは嫌だろうなと思うがどうしようもなかった。
すぐ電話を切って嫁に電話で飛行機の切符の手配を頼んだ。
オーナーにも相談の電話を入れて、副店長主任にも協力を要請した。自分が休んでいる間、大丈夫な様に段取りを組んで次の日を迎えた。
どんなに早くても昼の便しか取れなかった、出発までの間、離婚調停方と電話することになった、その方からどんな経緯でなったのかを聞いた後こう言われた。
「まるでドラマのような人生だったのですね」苦笑いしかできなかった。
自分が解っているだけで、結婚3回のうち国際結婚1回、内縁関係が3人ぐらいだからだ。
昼の便で関空へ向かったのであった。
泉佐野の近くの葬儀場で弟と落ち合った。先ず弟に労う
「ありがとな、本当に助かったよ」
弟は警察でホテルでの亡骸の写真を見せられて、精神的にやられたと語った、そして棺桶に入っている父の姿を見たくはないと言った。
自分は棺桶の近くへと歩を進めた、その姿は無残だったお湯に長い時間浸かっていたせいで、皮膚があちこちベロっと捲れた状態だった。
「飯食ったか?」と聞いたら「そんな姿見て食えると思うか?」と言われた。
まあ そりゃそうだろなと思いながら、昔の話をしながら朝を待ったのだ、朝を迎えて一番で火葬場に向かう、そして二人きりで全てを終わらせたのだった。
京都の弟の家で予約している飛行機の日時迄滞在する、滞在中は父が友人に預けた荷物の所在や、銀行などの停止とやる事やっていた。
少しだけだが弟の距離は縮んだと思うが、多分自分だけが思っていることだろう。
そして帰る日弟は関空まで送ってくれた。
骨壺を抱え飛行機に乗る。
流石に貨物室には預けられないと思ったので、普通に乗り込む、
やはりCAに声かけられた「この箱は何ですか?」
「すみません。亡くなった父の遺骨です。」と答えると隣の座席の下に置いていいと言って貰えた。
持って帰ってきたのは、お骨・位牌・祖父祖母の写真、後は父には悪いが一緒に燃やさせてもらった。
帰ってからはお墓に入れたり、叔父叔母と連絡を取り亡くなった事を知らせた。
そして2013年が終わった。