このタイトルは記事と言うのもおこがましい物である。
薄れゆく記憶を補填とボケ防止の為だけの半世記である。
就職試験
自分が、神奈川にある会社の就職試験を受ける頃には、内縁の方々はもう居なかった。
初めての道外は魅力的だった、一人だったから猶更だ。
羽田から武蔵小杉にある会社へ、そんなに迷わず着くことができたのは、父に付いて東京に来ていたのが幸いしたのだが、すごい関心している。
翌日に筆記試験と面接だったのだが、その日は、同じ北海道から来ている者達と九州から来ていた者達と友達になり、はしゃいでいたのを思い出される。
何考えているのか、事もあろうに女の子達の住所聞いてしまう始末、試験のプレッシャー何もなかった。
今でもそうだが、面接はすごく苦手だ、どうしても挙動ってしまう。
筆記はそんなに難しくはなかったし、どうせ落ちても悔いはなかった。
何一つ勉強なんかしていなかったのだから。
帰って来てから、女の子達に電話掛け捲った、試験に出掛けた筈なのに、まるでナンパしに行ったみたいだ。
結果は合格
凄い嬉しかったよ。嬉しすぎていた。
父はもう完全に諦めていた、家の家事は自分がするようにと言い、更に行く為の旅費は父の手伝いをする事で出してやると言われた。
その頃の父は、名古屋のリビルト会社と商売してた。
商売人としての父は尊敬してたが仕事がなぁ・・・
そして出発の日がやってきた。
昭和60年3月末の頃だ。
沼ノ端にある市営バスの停留所から千歳空港行きのバスに乗り向かった。
送られる事もなくたった一人での出発、凄く感慨深かった。
親に歯向かい他の土地での就職、これが希望となるか地獄になるかだったが、ワクテカだったよ。
こんな感じで家を出たので、車の免許取らせてくれとは言えなかった。
会社の配属場所は、高座郡寒川町、地図で言えば茅ヶ崎の上に位に当たる。
給料は安かった、高卒で手取り10万なかった。
だが同期たちは車を買っていたな、自分はというと、最初は布団とラジカセだけだったので、何も持ってないのに等しかった。
最初はTV次にビデオと少しづつ増やしていった。
バイクの免許は最初自動車学校でとるつもりだったが、予約とったりと面倒に感じたので直ぐ挫折した。
会社の慰安旅行でつくば博と千葉で潮干狩りに行った。
先輩方に可愛がれ、よく先輩の母校の大学の学祭に連れて行かれてた。
初めてのレース場、バリ伝の聖地!なまら感動だった。
コースをグルグル回って写真を撮っていたが、熱中症になったみたいで具合が悪くなっていた。
給料は安かったが、一時金だのボーナスは3カ月以上とまあまあ良かった。
年末のボーナスは一時金合わせて50万近かったな、それもって帰省した。
父に、家出て行く時の旅費と荷物を送る時の費用を返した、本当にいいのかって聞いてきたから、自分は最初から返すつもりだったと言って渡した。
とても気分が良かった。
そして昭和61年がやってきた。
いるかいないかは別として、ノストラダムスに興味を持っていたので書籍を購入してた。
そしてこの年いよいよハレー彗星がやってくるのだったが、忘れて自由な青春を謳歌してた。
貯金なんてしない、遊び歩いてた。
高校の時から一眼レフカメラを買い。
そしてズームレンズを買い。
今まで持った事のないビデオ、TV、ステレオと貯金なんかしていない。
4月、同期に誘われ、メガゾーン23part2を見に新宿ミラノ座に行く。
この作品のPart1のバイクシーンに魅せられて免許をとりたくなった。
合宿免許だと五日で取れると雑誌で見かけGWに取ることにした。
GW、山形の新庄自動車学校に行った。
この頃の自校の先生って、単車起こせなかったり、センタースタンド掛けれなかったら、小型からやれ!と強い口調で言われたのを憶えている。
同じ部屋の教習生徒が賭け事好きで、夜になると賭け事の大会が始まる。
これが参った。
これのおかげでお金が足りなくなってしまった。
5日で取れるとこ、日数オーバーして会社を1日休んでしまったが、なんとか中型自動二輪(現普通自動二輪)取得出来た。
会社の上司にはメチャ怒られたけどね。
学科試験受けに二子多摩川に行くけど、相変わらず面倒くさがりなので、一夜漬けで試験に挑む、当然落ちる、落ちるまた落ちるの連続だ。
そして有効期限の最後の日・・・・無事合格!!
今を思えば、なんて言う為体、まあ基本何も変わっていないがね。
バイクは茅ヶ崎のレッドバロンでGSX R250購入 記念すべき一台目の単車
やばい 記憶が抜け始めてる、思い出せなくなってきた。
書き出しているうちに矛盾が出てくる。なんてこったい。
親元を離れ自由を満喫してた、あの頃・・・
バイク買った年の盆休みに、金欠状態だったが北海道に帰省したな確か
父に内緒で北海道に向かった。
会うつもりもなかったと言うのが本音だ、泊まるとこも全然考えていなかったが、’どうにかなるだろう’そんな面持ちだった。
横浜までは行った事がある程度で、初めての遠距離だった。
しかも金が無いから節約しなきゃで、下道上等!てな感じで出発した。
国1で東京まで直走る、東京からは4号線に向かって走る。
うろ覚えだが、確か上野を抜けて4号線目指して走っていたと思う。
地図を見ながらより、道路にある経路案内を頼りに4号線へと合流したのだった。
車の流れに乗りながら、見知らぬ風景を堪能しながら北上していく、ハローマック・靴流通センター・マクドナルド・ケンタッキー等々やたら印象的だった。
随分、辛抱強いと言っていいのか飯も食わんと走りを楽しんでいたよな、そして尻も痛い、もう二つ三つ4つと割れているんじゃないかとゆうほど痛かった。
休憩も何度かはしたと思う。うん何度か、ん~コンビニでタバコ休憩・・・
本当に楽しんで走っていた訳ですよ。
仙台超えた辺りで薄暗くなってきたのを感じた、しかしまだ先は遠い。
取敢えず盛岡までは我慢と思いながら走った。
薄暗くなったのも、そのはず雨がポツポツと降り出していた。
寂しさ満点の雰囲気を醸し出している国4、路肩に停車して急ぎ雨具を着込む、まだ小雨だが本降りになるかもしれないと思っていた。
盛岡に着いた頃には、また少し雨は強くなっていた。
時刻は23時を回っていた。
あれだけ道路沿いに飲食店があったのに、コンビニのおにぎりだけで済ましてしまった。
辺りは当然真っ暗、この先どうするか考える。
雨具を脱ぐのが面倒なのでという理由で走り続行、だが盛岡ICから高速へ乗り青森へ向かう事にした。
雨がだんだん強くなってきている。トラックが横を通るたびに泥水をかけられる。
メットのシールドは直ぐ曇るので、完全には閉められない。
そんな危険な中の走行なのに、ウトウトしてしまう、そしてカーブの手前で目が覚める。
緩いカーブだったが冷や汗ものだった。
そんな色々な恐怖と闘いながら青森に着いた、もう雨は止んでいた。
行き当たりバッタリのソロツーリング、予約も取らずに青函連絡船に乗れた。
うまい事時間が合えば乗れるし一日で北海道いけるんじゃない、この経験が変に自信をつける事になる。
時間にして4時間30分ぐらいで函館に到着だ、ずっと走りっぱなしだったから直ぐに仮眠出来た。
早朝の函館駅、連絡船乗り場と直結なので降りると駅なのだ、そこから田舎の苫小牧へと走る、大沼を抜け長万部と向かう、大沼と言えば大沼団子、長万部と言えばカニ飯と思いながら走り続けるのだが、田舎道、只々続いている真直ぐな道、眠気がまたやってくる。
8月に入った北海道、朝晩はだんだんと肌寒くなっていっている、だからシールド全開!で走る眠気防止だ、あまりの寒さに身が縮こまるのだ。
今も思うのだが、大沼・長万部間はいつも眠くなるなぁ。
伊達・室蘭・登別・白老と抜けると故郷の道が見えてくる、苫小牧に入ると36号線は道幅が広くなる、そしてパン洋菓子の三星の工場兼店舗が見えてくる。
その時、あ~帰って来たぞ!と強く思うのだ、よくもまあ 走り切ったものだ。
先ずは祖父・祖母のお墓参りを済まし、どうするか悩んだ。
素直に父の所行けばいいのに、友達を頼った。
小6からの友達に無理を言って泊めてもらったのだ、ただ寝かせてもらい次の日帰路に着く、洞爺湖でちょっと観光ってゆうか休憩し函館へ向かう。
函館では同期が帰省してたので、連絡船の時間までちょっと遊んだ。
帰りも行き当たりバッタリ、青森には朝早い時間に到着だ、着いた時まだ暗かった。
早朝の八甲田山は薄気味が悪かった、奥入瀬に入った時もやっぱり気持ち悪かった。
十和田湖・発荷峠・八幡平アスピーテラインと走り、夜中に寮に着いた。
薄気味悪いと感じながらも毎回辿ってしまうのよね『中学の修学旅行コース』
リターン出来れば又走りたいものだ。