このタイトルは記事と言うのもおこがましい物である。
薄れゆく記憶を補填とボケ防止の為だけの半世記である。
GSX失う
87年は9月か10月、みんなでマックを買いに行った帰り、自分だけ単車で行ったんだけど、江の島から茅ヶ崎へ向かう途中車におかまほってしまう。
キープレフトしていて走っていた。車間が取れていなかった為もあり、右に急に寄ってきて対応できなかった。
向こうもバンパー凹んでいたが、痛み分けみたいな感じで別れた。
単車は動いたが、あちこちバッキバキだった。
単車はこんな状態だったが、売ってくれと来ていたので安く譲った。
買ってから数か月後の事でした。
暫くさみしい日々が続いた。
好きな子に告白するも玉砕、もうダメダメな日々を過ごしていた。
年が明けオタクな日々を悶々と過ごしていた。
ビデオを借りてはダビングしてを繰り返していたんだけど、アニメはするんだけどAVだけはダビングしなかった。
何故かしなかった、すごく不思議である、彼女いなかったのに、あれ?なんでだろうと今に思う。
冬になるちょっと前に、後輩が車買ったから、原付買ってくださいよと後輩から言って来た。
2代目の相棒Dio君が誕生!
1988年12月
指名料 1時間6000円の飲み屋に遊び歩いていた頃、フィリピンの女の子に熱を上げていた。
行くって言っていて行かなかった事に罪悪感を感じていた、お金ヨシッ!行ってみるかと一人でその店に行った。
入ると『あれっ!なんか違う。店の女の子も、あれっ!』暫く経っているうちに店変わってた。
場所は合ってるが、ホステスさん日本人になってた。
付いてくれた女の子メッチャ奇麗な娘で一目ぼれした。
源氏名を京子って言ってた。もうバカだったから12月のひと月でこの娘の為に50万使った。
馬鹿だよね~ホント馬鹿だよね~。
この娘と次の年の4月ぐらいまで同伴したりと、借金してまで金使ってた。
1月に昭和天皇が崩御されて、すべてが休み、TVは天皇陛下一色、あの時は苦行だった。
ダビングしたのを見るが、飽きてしまっている。AV借りようにも店は休みだった。
20代の若者にとっては苦痛でしかないよ。
今ならインターネットとゆう楽しがあるから退屈しないだろうけど、そんな89年の始まりだった。
89年はたまにパチンコに行ってた。
フィーバー機、飛行機とか打っていたな、あの頃は何も解らなかったから、野生の感だけが頼りだった。
現金機全盛の時代ってゆうか、しかなかったのである。
羽物ビッグシューター初めて打ったのも、この年だったよ。
なかなか続けられなかったからフィーバー機メインで売っていた。
交換率2円とか2.2円位の時代じゃなかったかなぁ~勝っていればいいって思ってたから交換率憶えていないわ、でも遊べるいい時だった。
パチンコ屋で1万発出していたら、メガネの小柄な女性から飲みに行きませんかと声かけられた。
人生で初めての逆ナンパ、戸惑いながらも一つ返事だった。
22歳にして「わぎょう男として立つ」さようならDT!
飲みに行って流れで海の近くで休憩、メガネ外したら、これまた可愛いし、スレンダーでキレイ、年齢は自分より若い娘だった。
いや~えがった。。。付き合いませんかって言われたけど、好きな娘いるからと断ってしまった。
断ってなかったら今の人生でなかったかもしれない。
ちょっと後悔。
それからしばらくして、会社の後輩のが彼女になった。
今日子ちゃん元気かな?って思うし、またあの場所に行ってみたいよ。
89年は色々と忙しかった年だった。
平塚の七夕祭り、やっているのは知っていたが見に行った事はなかった。
彼女と同期の男女に誘われて、なんかダブルデートみたいな感じだった。なんか芸能人来てたみたいだったが、仲良くお祭り見物、そして平塚一望できる公園へ行った。
あの頃は金持ったら使い放題だったから、いつも財布の中はすかんぴんだったよ。
同期の男の実家が千葉だったからお盆にダブルで遊びに行った。
海水浴に行って(溺れかけた・・・カッコわり)、鴨川シーワールドへ行き(イルカショウ良かったな)、鋸山登った(何故か頂上ついてから気分が悪くなった)。
溺れかけたり、楽しかったりしたのだけれど、気分が悪くなった原因が帰ってからの写真に理由が移っていた。
その写真を見て、彼女や他の人に見せる前に霊感の強い先輩に見てもらった。
「わぎょう君これやばいわ」
「やっぱ、そうですよね。これなんか酷いと思うんですよ」
「これは処分した方がいいよ、やり方わかる?」
そんなやり取りの中で先輩と別れてから、教えられた通りに処分した。
こんな思い彼女にさせられないと思ったな、凄い気味が悪い写真だったからな。
横浜博も行って1泊したな確か、雨が降っていたんだけど、観覧車乗る頃には雨も止んで夕日と富士山が奇麗だった。
行きつけのスナックによく行って歌歌ってた。
自分の知り合いにしつこく後輩が付きまとったので、帰りにぼこぼこにしてしまった。
酒の勢いとはいえ悪い事をしたと思っている、警察沙汰にはならなかったが寮長から注意を受けた。
幕張メッセで東京モーターショウ開催、彼女と他何人かで見に行った。
スズキ アクロス展示してあった、250CCメットインツアラーカッコよかったなぁ。
彼女の今日子田舎の工場に移動、FZR400RR12月に購入、納車まで眠れない日々を過ごす。
90年お正月
色々な人間に「彼女側にいないからさみしいべ」と揶揄われる。
3月桜咲く頃今日子が遊びに来た。
帰る日単車で静岡までタンデムで送った。花弁が舞って良い景色だった。
ずっと、このままで居たいと本気で思っていた、離れたくなかった。
寂しさを単車で紛らすように、FZR400RRで伊豆半島、都内8時間走りっぱなし、上野バイク街、後輩達とディズニーランドと走り回ってた。
田舎にもGWとお盆にも帰ったしね。
クリスマスに今日子が来ることに、ディズニーランド行って、上野動物園行った。銀の指輪欲しいと言われたが、答えに詰まったのを憶えている。(指輪とかアクセサリーとか買いに行くの恥ずかしかった)
91年もスカンピンは変らずだった。
2月今日子から姫路から出発の白馬へスキーに誘われる。
この時も全然いいとこなかった、カッコ悪かったな。
そして、あの電話がかかり彼女と別れる事になる。
その後はもう落ち込みまくったし、何をしても楽しくない。
書いているうちに思ったのだが、面倒くささ此処に極まると言いようがないと思った。
彼女からモーションばかりで自分何もしてね~のな、最低最悪だわ。
フラれるの当たり前だわな。
91年3月会社辞める。コンピューターに興味を90年位に持ち始めて、会社に移動願い出すも受理されない。
これで嫌気が指して、以前から誘われてた小さな会社に行く事にした。
念願のコンピューターを触れると期待していたが想像とは違っていた。
来る日も来る日も小さなプリント基板にコンデンサー・抵抗・ダイオードとはんだ付けの毎日、CADのきゃの字もなかった。
注文の個数が多いので組込みが間に合わない。更に製品検査も間に合わない状態だ。
キャの字なんか合ってたまるかだった。
そしてお盆休みに北海道へ帰省した。
またいつものように、青森まで高速で走り、青森から東日本フェリーで函館そして苫小牧へと向かうのだった。
今回は育ての母や妹達に会いに行くのだ。
暖かく迎え入れてくれた育ての母に異母兄弟の妹達に包まれて、失恋の痛手は徐々に癒えていった。
これが、いけなかった事になろうとは思っていなかった。
あろうことにホームシックを発症したのだ、仕事ではストレスで自律神経失調症を診断されてしまう。